データ
groschat produse vol.1
カノン〜彼の中の彼へ〜
【原作】アゴタ・クリストフ(ふたりの証拠より)
【脚本・演出】池谷なぎさ
【出演】V・銀太/上村美裕起/倉内雅彦/日暮敏勝/藤田洋/美優樹/小林あや/日吉薫/ヲギサトシ/橋本仁/玉一敦也/本多ハル/鈴木典子/小山雄/池谷なぎさ/高田恵篤
【日時】1996年8月1日(木)~5日(月)
8/2(金)-19:00
8/3(土)-14:00/19:00
8/4(日)-14:00/19:00
8/5(月)-19:00
※開場は開演30分前。当日券・整理券の発行は開演1時間前より行います。
【会場】池袋/文芸座ル・ピリエ
〒107-0013 豊島区東池袋1-43-4
[TEL]03-3971-3348
【チケット】[前売り・予約]2800円[当日]3000円
【前売・予約&問合せ】グローシャgroschat produce
【スタッフ】美術/V・銀太 照明/清水利恭 音響/青蔭佳代 音響操作/松本昭 衣装協力/出口美和 舞台監督/北村雅則 宣伝美術/梅原ナオヤ 印刷/昂印刷
【企画・制作】グローシャ
【協力】テアトロ“ジューラテスタ!”/HAPPY/流山児★事務所/外波山文明
コピー
◎コピー◎
<喪失>で始まる
この<生と性の物語>の中に秘められた
<事実>を探して
「ぼくらは常に修正と削除を繰り返す。」
【カノン】(canon’ 英・仏)音楽用語。
二つ以上の声部が厳格に模倣し合う対位法の手法で
複雑になると進行を反転させたり音価変えるといった事もできる。
挨拶
◎挨拶◎
本日は厳しい暑さの中、ご来場いただき、誠にありがとうございます。時を惜しむものではなく、時を投げ捨てていくのが今の私たちにはよく似合っていて、いつも遠まわりばかりしているようです。
この作品を創るに当たり、多くの人々の励ましに勇気づけられ幾度となく修正と削除を繰り返してきました。なかでも、アゴタ・クリストフの全作品の訳者である堀茂樹氏と早川書房の祖川和義氏には、多大なる協力を得ることができ、ここに深い感謝と御礼申し上げます。
あの場所を覚えてる?
そこで私たちは
グラスを傾けては
いつも笑ってた
そんな日々は終わりのない
ダンスのように過ぎていく
夜と朝のずっと遠い時を止めて歌うよ
あの森を覚えてる?
そこで私たちは
月の光の下で
鳥と遊んでいた
そんな日々は終わりのない
ダンスのように過ぎていく
夜と朝のずっと遠い時を止めて歌うよ
池谷なぎさ
物語
◎物語り◎
舞台は、第二次世界大戦末期から戦後にかけてのヨーロッパの片田舎、国境沿いの小さな町。他国の支配下の元に、がんじがらめの生活を余儀なくさせられている人々の暮らしの中で双子の兄弟が離ればなれになる所から物語は始まる。一人は国境を越え自由の国へ、もう一人は誰もいない家に戻る。そして、片割れを失い家に戻った主人公が彼と同じように何かを喪失し、傷ついた人々(不具の息子を殺してしまった女、ホモセクシャルな共産党員、無罪の罪で夫を殺された女、小説家を夢見るアル中の本屋、不眠症の男、など…)との奇妙な交流の中で生きるすべを見つけようとする。だが、現実は暴力的に彼らの傷を掻きむしるのである。沈黙と静寂と秩序に支配された社会はやがて人々の反感を呼び再び混乱を招くが、実力でねじ伏せられ結局何も変わる事はなかった。そんな社会の中で“書くこと”だけが主人公にとって必要であり、その“行為”そのものが「事実」でありうるのである。
この物語ではもう一人の双子の片割れはどこにも存在していない。しかし主人公は彼に対して、ノートに書き付けを残し続ける。そこには現実よりも生々しい嘘の世界がある。彼は、事実だけを精確に、客観的に書き続けるが、その事実とはいったい何なのか?
舞台では、彼のノートの中の現実と外の現実がカノンの如く絡み合っていき、そして、彼のノートの中の登場人物である男もまた、小説を書いている。あたかも双子の片割れのように。
◎行為の中の事実◎
1970年代から80年代に青春を過ごした世代の合い言葉は「自由であることがとても不自由である」でした。しかし、二十世紀も終末を迎えた今、1990年代というものの手応えのなさには、どうあがいても打つべき手がないように思えるのです。何かありそで何も無い社会の不幸は、誰もが無意味な生活を強要され、おせっかいなまでの愛と言う名の暴力に脅かされ、それでも自分は不幸ではないと思っていると言うことではないでしょうか。いったい何に対して腹を立てているのか、曖昧でやりきれないしこりだけが癌細胞のように蓄積していくのです。私たちは、とっくの昔に現実なんてものには愛想が尽きていたはずです。夢のような現実しか持たないこの社会に、夢や希望はもとより、居場所すらある訳もないのだから。重要なのは、現実でも幻想でもなく、事実なのです。 しかし、本当の事が事実であるとは言えません。なぜなら、本当の事は客観的ではないからです。見る・話す・聞く・書く・食べる・眠ると言った或る行為の中に事実は隠れていて、その行為そのものがアイデンティティの証拠で有り得るのだから……。
先ずは、「カノン~彼の中の彼へ~」と言う、明らかな事実をでっちあげてみようと思います。
池谷なぎさ
原作
◎原作◎
【悪童日記】
第二次世界大戦末期に、ハンガリーの国境沿いの田舎町に疎開し、粗野な「おばあちゃん」のもとで暮らす事になった双子(リュカとクラウス)が戦時下の荒廃しきった環境でしたたかに生き延びていく話を「ぼくら」という一人称のかたちで書かれた「作文」の連鎖で物語化されている。
【ふたりの証拠】
『悪童日記』の「ぼくら」の一方の片割れが国境から「祖母の家」に戻った所から始まる「別離」後のリュカの物語である。戦後の社会の雰囲気は重苦しく沈黙と、静寂と、秩序が支配している。リュカを中心とする物語は、突然途切れ主人公はクラウスと名乗り、リュカはその時点から二十年も前にクラウスに宛てた数冊の「大きな帳面」を残して姿を消してしまっている。そして、ふたりの実在の証拠は何処にも無い。
【第三の嘘】
語り手を一人称単数の「私」とし前半に告白、後半に回想を配し前二作の背後にあった『真実』を明らかに告白していくかたちで物語が進んでいる。前二作の種明かしをするかに見えて、全てをフィクションの中に引きずり込む「からくり」が巧妙に仕組まれている。
【アゴタ・クリフトフ】
1935年、ハンガリーのオーストリアとの国境に近い村に生まれる。
1956年のハンガリー動乱の折に西側に亡命して以来、今日までスイスのスーシャテル市に在住している。
1985年の「悪童日記」によりパリはもとより世界中の新聞社の絶賛を浴びる。2年後の続編「ふたりの証拠」で底知れぬ才能を評価され、91年の第三作「第三の嘘」でその異端ぶりを見事に立証された。